有这样一些日本的特色词汇,看似含义简单,或是场所、物品名称,或是节日、自然现象,但其背后却暗含着丰富的日本文化,以及日本人独特的思维方式。理解这些词,不仅有助于我们走近日本,或许也可以让我们读懂日本人的内心。
本刊原日本专家福井百合子女士以随笔的形式,向我们讲述了这些特色词汇的含义,宛若开启了一次发现之旅。那么,就让我们跟随她一起去探索其中的奥妙吧。
今年の梅雨は長く、たっぷり1カ月半以上続いた。ようやく梅雨があけ、本格的な夏がやって来た。夏と言えば何といってもセミで、セミの声を聞くと夏が来たことを感じる。北京のセミはジージーとなんだか乾いた鳴き声で、機械音のように感じ、あまり情緒を感じなかったが、日本のセミは鳴き声にも湿り気を帯び、余韻があって、とても心地よく感じる。特にミンミンゼミの、ミーンミンミンミンといった声は、まさに日本の夏の情緒を感じる。
今年的梅雨季很长,足足持续了一个半月以上。好不容易出了梅雨季,迎来了真正的夏天。夏天的主角无疑是蝉,听闻蝉声意味着夏季到来。在北京,“吱吱”的蝉鸣声听起来总觉得有些干涩,像是机械发出的声音,感受不到什么情绪;而在日本,蝉鸣声中都带着湿气,余音袅袅,听上去悦耳舒畅。特别是蛁蟟(diāoliáo)发出的呡呡呡的叫声,能让人感受到纯正的日本夏日风情。
閑(しずか)さや 岩にしみ入る 蝉の声
寂静山林中 穿透岩石响碧空 蝉鸣尖厉声
これは松尾芭蕉の代表作ともいえる俳句だが、静まり返った周囲と賑やかなセミの声の対比がすばらしく、硬いごつごつした岩がある森の中にただセミの声が響き渡っているという夏山の風景がまぶたに浮かぶ名作だ。
这是俳句大师松尾芭蕉的代表作,万籁俱寂的环境和喧嚣的蝉声作对比,绝妙至极。读罢立即让人眼前浮现出在遍地坚硬岩石的森林中,只有蝉鸣响彻天际的夏日山林风景画,不愧是名作。
アスファルトジャングル東京にあっても、セミはしぶとく生き抜いている。都会の子どもたちにとって、セミ採り遊びは自然に触れ合う数少ない機会であり、捕虫網と虫かごをもった少年が、セミを探して木を見上げているのをよく見かける。私にとっても、地面から出て来たセミの幼虫の羽化を見守るのが、夏の夜の楽しみになっている。まだ日中の熱さを留めたどこまでも続くアスファルトの上を、セミの幼虫が羽化場所を探して這いずり回っていることがある。気の毒になって、幼虫をひょいとつまみあげ、木にくっつけてあげると、数時間後には真っ白い成虫になるという生命の不思議。蚊に刺されながら時間が経つのも忘れて羽化の過程を観察してしまう。
即便在被称作水泥森林的东京,蝉也能顽强地生存下来。对于都市的孩子们来说,捕蝉游戏是极少数能够亲近自然的机会,经常可以看到拿着虫网和虫笼的少年,仰望大树寻觅蝉的踪迹。对我而言,观察蝉幼虫出土羽化的过程,是夏日夜晚的乐趣之一。有时候,蝉幼虫为了寻找羽化场所,要在尚且残留日晒高温,到处滚烫的柏油马路上来回爬行。这时我会很心疼它们,轻轻捏起幼虫,让其附着在树上,于是几个小时之后,不可思议的生命奇迹出现了:幼虫破茧而出变成了雪白的成虫。为了观察羽化过程,我可以不顾蚊虫叮咬甚至忘记了时光的流逝。
そして翌朝残されるのがセミの抜け殻だ。セミは地上に出てからの寿命が短いため、古来より無常観と結び付けられることが多く、特にセミの抜け殻に日本人は「はかなさ」を感じていて、「うつせみ(空蝉)」という詩的な言葉でこれを呼んでいる。この言葉は、源氏物語第3帖の巻名として使われ、俳句の夏の季語でもある。またこの言葉にはセミの抜け殻という意味以外にも、この世に生きている人間、転じてこの世という意味もあって、やはり「はかないもの」という情緒を共有している。
而第二天早上留下的,便是蜕掉的蝉衣。由于蝉钻出地面之后寿命很短,所以自古以来,蝉就经常被用来表现无常观。特别是蜕掉的蝉衣,会让日本人有一种“世事无常”的感慨,于是便诞生了“空蝉”这个诗一般的词汇。该词曾作为《源氏物语》第三贴的标题,也是俳句中表现夏季的季语。除了有蜕掉的蝉衣这一涵义外,“空蝉”也指生活在世上的人或转意指人世本身,但不论哪种意思都体现着“无常”的内涵。
文:福井ゆり子
翻译、编辑:钱海澎
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